ホームページ開設時に、長々と私の過去の人生の歩みを書きましたが、今読み返すとなんだか恥ずかしく、自慢できることは何一つなく、必要のないものかもしれません。でも一つだけ、この私の人生こそが、TDEと言うエネルギーとの出会いをもたらしてくれた、と確信します。

 

過去の歩みは削除せずに残そうと思います。以下がその内容ですので、必要ない方はどうぞスルーしてください。

 

                   2020年9月9日 

 

 


自己紹介をさせていただきます。

 

別れ

私は今までの人生のなかで、3つの大きな別れを経験しました。

 

40代 前半

ひとつは 息子が14歳の時に離婚し、事情により息子に会えなくなったことです。 息子と離れて暮らした約5年間、私はこの世で一番取るに足りない何ものかになりたかった、表現すればそんな氣持ちでしょうか。

 

息子に申し訳なくて、そして会えないことが辛くて、別れた直後1年間は、いつも泣いていました。中学生の制服が怖くて、いつも避けるようにしていました。思い出して涙が止まらなくなるからでした。

 

それでも、「2人共生きている、息子も私も…」そのことが最大の支えであり、「時間と共に会える瞬間に近付いている」、そう自分に言い聞かせました。

そしてそのことを何故か確信し、一歩ずつ距離を縮めていくことになりました。

 

50代後半

もうひとつは、母の逝去です。84歳でしたので、誰もが経験される親との別れです。母が亡くなる少し前から、言葉を伴わない意識の交換をしていたような氣がします。

 

母はいわゆる教育ママでした。私は子供時代、よく叱られる夢を見て、泣いては目を覚ましました。大人になってからも母と意見が合わず、しょっちゅう喧嘩しました。

 

それでも介護のために故郷に戻り、亡くなるまでの1年足らずのうちに、私の母に対する思いは変わりました。母の存在をこの上なく愛おしく感じるようになりました。あの母が…レンゲの花の精のように笑うのでした。

 

母は認知症になり、魂のきらめきそのものになっていたのです。そして2014年7月13日の朝、はかり知れない程の愛を置いて逝ってしまいました。

 

石渕ナホコ...??歳に(笑)

そしてもうひとつ、最愛の父との別れが来ました。88歳で人生を終える時、言葉を発することができない父は、「もういくよ」と、目で私に合図しました・・・後から氣付いたのですがそう確信しました・・・半年間辛くて泣いていました。

私はほんとに泣き虫です。いくつになっても。

 

今はいつも父と一緒です♡父の生前よりずっと身近に感じ、いつも見守ってくれている、それは本当ですね♡不思議なシンクロにそれを確信するのです。

 

これらの経験を通して、自分の力ではどうにもならない大きなエネルギーに包まれているような、どんなに自暴自棄になっても、決してあきらめることなく見守ってくれる存在があることに氣づかされました。景色は変わるけど、変わらないものがあることに。

 

誕生 

私は青森県の弘前市で生まれ、青森市で育ちました。

 

冬は雪が降るのをぼんやり眺めるのが大好きな子供でした。

 

そして十代の頃までは、泳げないのに海が大好きで、海を見ている時間、私はまるで海に恋をしているようでした。

 

10代後半 ~

弘前大学人文学部文学科に在学中、劇団文学座付属演劇養成所に応募して 受かったのをきっかけに、20歳で演劇を志し上京。約8年間、結婚し息子を授かるまで、夫だった人と共に芝居の世界にいました。今思うと懐かしささえ感じる、売れない役者生活を経験しました。

夫は心底芝居が好きな人で、不器用ですが、面白い味のある役者でした。

 

紆余曲折はありましたが、ずっと東京またはその近郊に住み、結婚、出産、そして離婚を経験しました。

 

40代前半 

離婚直後、已むを得ず子供と別れ、ぬけがらのような状態で東京から青森に戻り、4年後また息子のいる東京へ。

 

40代後半

その後約9年間 、ホテルのインフォメーション・予約の仕事に携わりました。会えなくても、息子と同じ空の下にいることが、この上なく幸せでした。

 

50代前半

2011年、東日本大震災の年の秋、東京で会社員として仕事をすることに精神的にも肉体的にも限界を感じ始めた頃、TDEというエネルギーに出会いました。

 

TDEのお陰で 、ストレスのため何をやっても治らなかった背中の痛みが取れていることに氣付き、高校生の頃から何度も繰り返したぎっくり腰も、直前で防げるようになっていました。

 

そして震災の数年前、息子とついに再会を果たしました。父に付き添ってもらってのことです。

 

14歳で別れ、19歳になっていました。思春期の息子と私の心はみごとにすれ違い、会うことが叶わぬ5年間でした。

 

その間一度だけ 電話で話したことがあり、「声変わりしたんだね」と言うと、「氣がつかなかった…」と言った言葉にショックを受け 涙が溢れました。声変わりをお祝いしてくれる家族が傍にいなくても、ちゃんと生きていることに感動したのかもしれません。

 

50代後半~現在に至る

私は2013年に東京の職場を退職し、故郷青森に単身戻りました。そして1年後、離婚してぼろぼろになった私を立ち直らせ再び東京に送り出してくれた母を失い、その存在の大きさに驚き、そして失ったことの大きさにうろたえました。

 

2015年11月24日、弘前市富士見町に、アーティスティック・セラピーサロン「Gracebody」を開設しました。

2020年2月、サロン名を「gracenaao ぐれいすなーお」に改名。時代の流れがそうさせたようです。

 

この土地は父が育ち、私が生まれたばかりの頃過ごした、祖父母の家がある懐かしい場所です。

 

2011年に初めてTDEと出会った瞬間に、 「富士見町でサロンを…」と決めていたような氣がします。大学が傍にあるため活気がありますが、「この区画だけ 時が止まったようで別世界みたい…」と表現した知人がいます。

 

住宅街にある 静かなこの土地で、ご縁のある方に、ご自身のタカラモノを見つけていただければ幸いです。

 そういうエネルギーが流れている土地です。

 

2017年の春から、「津軽弁で昔こ」の語り、絵本の朗読にも取り組み始めました。

 

私は、母の所蔵していた 佐野洋子の「100万回生きたねこ」と目が合い、その絵本は「誰のねこでもなく 自分だけのねこになりなさい」と告げていました。

 

そして、何度も何度も、「100万回生きたねこ」を声に出して読んでみました。

 

現在は時間の許す限り、津軽の語り部として活動しています。

自分のために津軽弁で語る...周りであまり聞かれなくなった津軽弁...私の言葉で語りたい...そんな思いで。

 

「語る」また「聞く」という行為が、私の中に心地よく響き合い、エネルギーの世界と無理なく繋がっていくものであることを確信しました。

 

思えば、お芝居を始めた頃の中学生の私と今の私が、プリズムの光のようにキラキラと繋がっていることが不思議でなりません。

 

何ひとつ無駄なものはないと知りました。

 

離婚し病を得て、偶然にも母と同じ年に この世を去った私の夫であった人、息子の父に、亡くなって初めてやっと心から「ありがとう」と言えたのかも知れません。

 

長い文章を最後までお読みくださり、心から感謝いたします。

肉体を脱ぐまで、ゆっくりでも、無条件の愛を自然に持てる自分に近づくことが夢です。


「GRACE 」…「神の恩寵」は、人の中にこそ在るとやっと分かり始めた。

 

ありがとうございました💐

 2017年7月6日 ホームページオープンに寄せて

石渕ナホコ